前を向くために Part3

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人生、前向きに生きたいもの。でも、何かと後ろ向きになりがちな自分がいるのです。前向きに生きるには、まず前を向かなければなりませぬ。じゃあ前を向くためにはどうしたらいいの?と日々悩んどります。これはその記録の一部です。

般若心経解読

現在日本で読める般若心経の漢訳がたぶん全部無料で読めるところ。 SAT大正新脩大藏經テキストデータベース2012版(SAT 2012)
ここの「般若部」→「般若部 Vol. 8」→「般若波羅蜜多心經:0251 (玄奘譯)」が玄奘訳のテキストである。以下、これを解読する。

般若波羅蜜多心經(タイトル)

はんにゃはらみたしんぎょう

まずはタイトルから。「般若波羅蜜多心経」とは、どういう意味なのか。
そもそも、梵語原典にはこのようなタイトルそのものが無い。翻訳者、つまり玄奘三蔵が付けたと推測される。
付けたといっても、どっかあさっての方角から持ってきたのではなく、この経の最後に、「般若波羅蜜多心を終わる」という一文があったので、それを一番前に持ってきて「般若波羅蜜多心」とし、それに「経」をくっつけたということになっている。
なお、般若、波羅蜜多、心、経といった言葉については別記事参照

觀自在菩薩。

かんじさいぼさつ
観自在(旧字体で觀自在)菩薩
玄奘訳。原語からの直訳のようだ。羅什は観世音と訳している。つまり観音菩薩である。
世間の多くの人々つまり衆生から見られつつ、衆生を観、そして救う働きが自在であり、それは根源的な叡智を体得した者ということになっている。
ちなみに、菩薩は原語ボーディサットヴァの音写。さとりを求める者、求道者。元来はブッダの前世の呼び名だったが、大乗仏教興起時代の革新派以降、求道者一般を指すようになった。

行深般若波羅蜜多時。

ぎょうじんはんにゃはらみつたじ
深般若波羅蜜多を行じし時

深遠な智慧の完成を実践していた時に
深はここで言う般若波羅蜜多が六波羅蜜(多)の一つではなく、全体を含むものであるということを明示するためと考えられている。

照見五蘊皆空。

しょうげんごおん(ごうん)かいくう
五蘊皆空なりと照見して

五蘊については別記事参照
皆空は文字通り、みんな空(くう)ということ。
については、別途記事にする。
「照見」とは、中村元氏の訳では、五蘊はあると「見極め」、それらが空であると「見抜いた」。佐々木閑氏も、五蘊が「あり」、それらの本質が空であると「見た」。 注目すべきは「五蘊はある」とした上で、それらが「空」であるとしたところだ。
五蘊はあるというのは、後に出てくる「無色無受想行識」と矛盾するように思える。これはどういうことだろうか。五蘊は皆、空であり、また空は五蘊であるということがやはり後に出てくるが、空との対比上、あるとしたのか。
空はゼロであるが、ゼロという数字は抽象的概念である。数字はすべて抽象的概念であり、記号であるから。しかし確かにゼロという数字はある。ゼロがあるということと同じレベルで空があるのだとすると、空は抽象的概念であるということになる。これは本当だろうか。
空が抽象的概念として「ある」のと同じレベルで五蘊が「ある」ということなのだろうか。今のところは、わからない。が、「照見五蘊皆空」においては、「五蘊はあって」「空と見抜いた」のである。五蘊があるということに留意。

度一切苦厄。

どいっさいくやく
一切の苦厄を度したまえり

一切の苦悩(苦しみ)や災厄(わざわい)を取り除いた(超えた)。
この一文は元の梵本には無い。玄奘が挿入したと見られる。実際、他の訳には無いが、羅什訳にはある。これは奇妙である。
玄奘が羅什を写したかという疑惑の根拠の一つであろうか。片方が片方を写したとすれば、時代的には羅什が先であるから、玄奘が羅什を写したことになる。しかし 羅什訳も本当は羅什ではなく、玄奘より後の誰かが訳したのではないかとの疑いもあり、断定はできないらしい。
何れにせよ原文には無いのだから、どうでも良いかもしれない。だがなぜ原文に無いものをあえて入れたのか、という疑問は残る。無ければ五蘊皆空の教えでしかないものを、これによって「一切の苦厄を度することができる」ご利益を与えようとした、というのは穿ち過ぎか。

舍利子。

しゃりし
舍利子よ。

シャーリプトラよ。
シャーリプトラはブッダの10大弟子の一人。智慧第一と言われた人。ここは観自在菩薩が舍利子に教えを説いている。
菩薩は大乗仏教特有の存在で、ブッダの時代にはなかった。ブッダの時代にはいなかった菩薩が、ブッダの弟子で実際にいた舎利子に説いている。あり得ない構図である。佐々木閑氏によると、ここに、大乗仏教がブッダの仏教より上だと言いたい作者の意図が読み取れると言う。

色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。

しきふいくう くうふいしきしきそくぜくう くうそくぜしき
色は空に異ならず。空は色に異ならず。色は即ちこれ空、空は即ちこれ色なり。

般若心経で一番有名な場所である。が実は原典ではこの二行の前に一行ある。
中村元氏は法月の普遍智藏般若波羅蜜多心經の

色性是空空性是色

と智慧輪の般若波羅蜜多心經の

色空。空性見色。

を例として挙げている。これらは前述のSATデータベースで 確認できる。
なぜ玄奘が一段目を省略したのか。実のところはわからない。それは三段とも同じことを言っているからという考え方もあるとする一方で、中村元氏は、短い心経の中で無意味に同じことを繰り返す必要はなく、三段それぞれに意味があると見るべきであると言う。

受想行識亦復如是。

じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ
受想行識もまたかくのごとし。

五蘊の残り四つも同じだと言っている。この四つは人間の精神面であることに注意。物質界も精神界も同じように「空」と等価なのだ。

舍利子。

しゃりし

またシャーリプトラに呼びかけている。

是諸法空相。

ぜしょほうくうそう
この諸法は空相にして、

この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
ここで、前述の「法」もすべて空であると言っている。

不生不滅。不垢不淨不増不減。

ふしょうふめつ ふくふじょうふぞうふげん
生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、

生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
このように、不○不×という反対のものを対にした句を不二(ふに)と言う。ここでは三対だが、数え方は六不と数える。
すべての存在するものは根源的には空なるものであって、生ずることも滅することもない。また本来、清浄であるとも不浄であるとも言えないものである。存在を空 と摑むときには、増すことも減ることもない。

是故空中。

ぜこくうちゅう
この故に、空の中には、

無色。無受想行識。

むしき むじゅそうぎょうしき
色もなく、受も想も行も識もなく、

ここから無のオンパレードである。まず五蘊が否定された。

無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。

むげんにびぜつしんい むしきしょうこうみそくほう

六根と六境が否定された。これにより十二処が否定された。
十二処十八界(六根六境六識)については別記事参照

無眼界。乃至無意識界。

むげんかい ないしむいしきかい

十八界の最初と最後が否定されることによって、十八界すべてが否定された。

無無明。亦無無明盡。

むむみょう やくむむみょうじん
無明もなく、また、無明の尽くることもなく、

十二因縁(縁起)の最初が否定された。

乃至無老死。亦無老死盡。

ないしむろうし やくむろうしじん
乃至(ないし)、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。

十二因縁の最後が否定された。最初と最後が否定されたことにより十二因縁すべてが否定されたことになる。途中は省略されている。
十二支縁起については別記事参照

無苦集滅道。

むくしゅうめつどう

四諦が否定された。
四諦については別記事参照

無智亦無得。

むちやくむとく
智もなく、また、得もなし。

知ることもなく、得るところもない。
知るとは、悟りを観る智である。智が無いのであるから、智によって得られるもの、すなわち悟りも無い。また悟りによって到達する涅槃もない。
ついに、悟りも涅槃も無いと言い切ってしまった。まさにブッダの教えの完全否定の究極である。

以無所得故。

いむしょとくこ
得る所なきを以っての故に。

それ故に、得る所がないから、
この句が心経の前半と後半の境目になる。これ自身が前に入るか後ろに入るかは両論あるが、今ここでは、中村元氏の注釈と敦煌本によって、後ろに含める。

菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。

ぼだいさつた えはんにゃはらみたこ
菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に。

菩提薩埵は菩薩のフルスペル。
なにも得る所が無いのであるから、菩薩は般若波羅蜜多に依ったために、こうなのだと以下に続ける。

心無罣礙。

しんむけいげ
心に罣礙なし。

心を覆われることがない。
心を覆われることがないとは、心に迷いが無いということ、生死や善悪などの意識によって心を束縛されることがないということ。

無罣礙故。無有恐怖。

むけいげこ むうくふ
罣礙なきが故に、恐怖あることなく、

心を覆うものがないから、恐怖することなく、

遠離顛倒夢想。

おんりてんどうむそう
顛倒夢想を遠離して

顛倒した心を遠く離れて、
倒錯した心を超越して、
顛倒夢想とは、正しくものを見ることができない迷いのこと。
なお、一般に用いられる読誦用『心経』には「遠離」の後に「一切」を入れることが多いが、原文にはなく、梵語原文にも該当する原語は入っていない。なぜ読誦用に「一切」が入っているのか、いつから入っているのか、誰が入れたのかは不明。

究竟涅槃。

くきょうねはん
涅槃を究竟す。

涅槃に入っているのである。
涅槃については別記事参照
つまり菩薩は般若波羅蜜多によって涅槃に入ったのだと言っている。 前述の「以無所得故。」を境に、ブッダの教えの完全否定から、般若波羅蜜多の肯定へと内容がガラッと変化していることがわかる。

三世諸佛。

さんぜしょぶつ
三世諸仏も

過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、
三世とは、過去、現在、未来の世のこと。諸仏とは、三世にまします無数に多くの仏たち、すなわち悟った人々を言う。ブッダのことではない。

依般若波羅蜜多故。

えはんにゃはらみつたこ
般若波羅蜜多に依るが故に、

得阿耨多羅三藐三菩提。

とくあのくたらさんみゃくさんぼだい
阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。

この上ない正しい目ざめを完全に覚り得られた。
阿耨多羅三藐三菩提は原語アヌッタラー・サムヤックサンボーディanuttarā samyak-saṃbodhi の音写。無上正等正覚と意訳する。「この上もない、正しく平等な目ざめ」「完全なさとり」の意。仏(ブッダではない)の覚りを指す。

故知般若波羅蜜多。

こちはんにゃはらみた
故に知るべし、般若波羅蜜多は、

是大神咒。

ぜだいじんしゅ
これ大神咒なり。

大いなる真言
大神咒は原語マハー・マントラ mahā-mantra の訳。「神」の字は漢訳者の挿入と言われるが、これは「マハー」が「大」で「マントラ」が「咒」なのであるから、普通に訳せば「大咒」としかならないから、そう言われるのである。マントラは通常、咒、明咒、真言と訳される。要するに呪文である。

是大明咒。

ぜだいみょうしゅ
これ大明咒なり。

大いなるさとりの真言
原語はおそらく、マハー・ヴィデヤー・マントラ mahā-vidyā-mantra で vidyā はさとり(無明に対する明)の意。

是無上咒。

ぜむじょうしゅ
これ無上咒なり。

無上の真言
原語はおそらく、アヌッタラー・マントラ anuttarā-mantra で anuttara はこの上もないの意。

是無等等咒。

ぜむとうどうしゅ
これ無等等咒なり。

無比の真言は、
原語はおそらく、アサマサマ・マントラ asamasama-mantra で asamasama は比類の無いの意。

能除一切苦。眞實不虚故。

のうじょいっさいく しんじつふここ
よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざるが故に。

すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。

説般若波羅蜜多咒。即説咒曰

せつはんにゃはらみつたしゅ そくせつしゅわつ
般若波羅蜜多の咒を説く。すなわち咒を説いて曰く、

その真言は、智慧の完成において、次のように説かれた。

掲帝掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶

ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか

(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)
原語は gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā である。
gate 以下の4語はおそらく女性形単数の呼格。完全な智慧 = 般若波羅蜜多(prajñāpāramitā)を女性的原理とみなして呼びかけたのであろうと中村氏は解釈・推測する。bodhi も呼格である。svāhā は、中村氏によると、咒の最後に唱える秘語。
gate を於格(場所を示す)と解すると、以下のようにも訳し得る。
往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に完全に往けるときに、さとりあり、スヴァーハー。
この呪文が、五蘊皆空と並ぶ般若心経のもう一つの真髄である。実際、心経の「心」には「呪」の意もあることから、まさにこの呪文こそが「般若波羅蜜多心」とも言える。

般若波羅蜜多心經

はんにゃみつたしんぎょう

ここに智慧の完成(般若波羅蜜多)の心が終わった。