般若心経の周辺知識
般若
梵語のプラジュニャーprajñā、その俗語パーリ語パンニャー paññā の音写。智慧(無分別智)という意味。
波羅蜜多
梵語パーラミター Pāramitā の音写。彼岸に到った、あるいは彼岸に到る状態としての完全に到達することという意味。完成。
般若波羅蜜多で、智慧の完成という意味になる。波羅蜜多(新訳)、波羅蜜(旧訳)とはまた、大乗仏教において菩薩が修めなければならない実践徳目のこと。
般若経では、波羅蜜多(波羅蜜)には六波羅蜜多があるという。
- 布施(ふせ)=檀那(だんな)
- 持戒(じかい)=尸羅(しら)
- 忍辱(にんにく)=羼提(せんだい)
- 精進(しょうじん)=毘梨耶(びりや)
- 禅定(ぜんじょう)=禅那(ぜんな)
- 智慧(ちえ)=般若(はんにゃ)
前の五波羅蜜多は最後の智慧波羅蜜多を得るための手段とされる。
心
心髄、真髄、真言という意味。また精髄、精要とも。
經(経)
梵語原典には無い語。中国にて漢訳時に付けられたと思われる。仏や聖者の言行や教えを文章に纏めたものの意。
五蘊
色、受、想、行、識の五つ。 ブッダは人間が何からできていてどういうあり方をしているのかを五つの要素で把握した。
- 色:物質的現象として存在するもの。外界にある物質全般。また特に人間の身体。
- 受:外界からの刺激を感じ取る感受の働き。感覚。
- 想:いろいろな考えを組み上げたり壊したりする働き。表象。
- 行:何かを行おうと考える意思の働き。意志的形成力。
- 識:あらゆる心的作用の基本となる、認識の働き。六識。六識については後述。
2〜5の受想行識は精神作用、心の要素である。外界(物質界)のことはすべて「色」に含まれる。
十二処十八界(六根六境六識)
六根と六境を合わせて十二処と言う。十二処に六識を加えて十八界と言う。
六根とは、眼、耳、鼻、舌、身、意。
六境とは、色、声、香、味、触、法。
六識とは、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識。
それぞれ対応している。六根の最初の5つ(五根と言う)は五感と同じ。身は触覚のこと。眼で色(ここでの色は五蘊の色とは違うのだろう)、耳で声、鼻で香、舌で味、身で触を認識する。これらで物質界つまり五蘊の「色」を捉える。
六つ目の意は心のこと。心も認識器官と考える。意で認識するのが法。意をさらに五根と対応させたのが六識である。
三科
五蘊十二処十八界を三科(さんか)と呼ぶ。これは後世の人が付けた名前で、ブッダ自身がそう名付けたわけではない。
四諦
ブッダが悟りを得た後に初めて弟子たちに説いた法のうちのひとつとされる(初転法輪)。この世の苦を滅して悟りを得るまでの四つの真理である。
- 苦諦(くたい):この世・人生は苦であるという真理。一切皆苦。
- 集諦(じったい):その苦を生み出す原因は煩悩であるという真理。
- 滅諦(めったい):その煩悩を滅すると苦が滅し涅槃が実現するという真理。
- 道諦(どうたい):その煩悩を滅するための具体的な道という真理。八正道。
四苦
- 生:(輪廻によって)生まれる苦しみ。
- 病
- 老
- 死
八苦
四苦に加え、
- 愛別離苦(あいべつりく):愛する対象と別れなければならない苦しみ。
- 怨憎会苦(おんぞうえく):憎む対象に出会わなければならない苦しみ。
- 求不得苦(ぐふとっく):求めても得られない苦しみ。
- 五陰盛苦(ごおんじょうく):人間生存自身の苦しみ。
十二縁起
旧訳では十二因縁。また十二支因縁、十二支縁起とも。苦の原因は無明から始まり老死で終わるとされる、十二の因果の理法。これらは直線的な因果の連鎖であり、順序があるので注意。
中村元氏によると、
- 無明(むみょう):過去世に無限に続いてきている迷いの根本である無知。
- 行(ぎょう):過去世の無明によって作る善悪の行業。
- 識(しき):過去世の業によってうけた現世の受胎の一念。
- 名色(みょうしき):胎中における心と体。
- 六入(六処(ろくしょ)):胎内で整う眼などの五根と意根。
- 触(そく):出胎してしばらくは苦楽を識別するには至らず、物に触れる働きのみがある。
- 受(じゅ):苦・楽・不苦不楽、好悪を感受する感覚。
- 愛(あい):苦を避け常に楽を追求する根本欲望。
- 取(しゅ):自己の欲するものに執着する働き。
- 有(う):愛取によって種々の業を作り未来の結果を引きおこす働き。
- 生(しょう):(輪廻により来世に)生まれること。
- 老死(ろうし):(来世の)老と死。
三世両重の因果
過去の因(無明・行)と現在の果(識・名色・六入・触受)、現在の因(愛・取・有)と未来の果(生・老死)という二重の因果を示すものとして、これを三世両重の因果という。
中村氏は
これは後世の有部(説一切有部)に現れる形式的、胎生学的な解釈であって、本来の形(つまりブッダの考えた十二縁起)はもっと名目も少なくて、人生の苦しみの根源を追求して、それについての因果関係を示すものであったろう
と言っている。
八正道(はっしょうどう)
四諦の道諦の具体的内容である。
- 正見(しょうけん):正しい見解
- 正思惟(しょうしゆい):正しい考え
- 正語(しょうご):正しい言葉
- 正業(しょうごう):正しい行為
- 正命(しょうみょう):正しい生業
- 正精進(しょしょうじん):正しい努力
- 正念(しょうねん):正しい念慮、気付き
- 正定(しょうじょう):正しい集中
八正道の意味については Wikipedia が詳しい。http://ja.wikipedia.org/wiki/八正道
涅槃
涅槃とは原語ニルヴァーナの音写。一切の迷いから脱した境地。
ブッダの涅槃観は小部経典ウダーナ(自説経)8章の1〜4あたりにある。この反対(つまりこの世と、おそらくは輪廻)が8章の3にある。ウダーナについては検索のこと。
勘違いしてならないのは、涅槃は天国ではないということ。他の宗教で言う天国は、仏教には存在しない。「天道」という、人間道よりもワンランク上の「場」はあるが、これは永遠に続くものではない。天道においても、「天人」は老い、死ぬのである。そしてまた輪廻によって生まれ変わる。
涅槃とは、ブッダが語ったウダーナによれば、要約すると「何も無い世界」である。何も無いから、輪廻が生じない。ブッダはそう考えた。何かがあれば、何かの業が生じ、輪廻の輪に取り込まれる。輪廻に閉じ込められているうちは、決して意識(心のようなもの)は滅しない。涅槃があまり楽しそうな気がしないのは、凡人ゆえか。
輪廻
ブッダの仏教においては、輪廻は心の状態である。空間的事象あるいは世界ではない。また、必ずしも「善趣」つまり後の「天道」を肯定しない。天においても生病老死の四苦から逃れることはできないし、煩悩から解放されることもないからである。
ブッダにとっては、輪廻の先がどこであるかは大した問題ではないのである。輪廻そのものが苦なのである。なぜならばそれは「生病老死」の四苦の繰り返しに過ぎないからである。
であるから、輪廻から脱し、涅槃に至ること、すなわち解脱することがブッダの仏教の究極の目標なのである。ブッダは善業も悪業も否定した。出家してひたすら煩悩を消すことだけに打ち込むべし。これがブッダの教えである。
五趣輪廻・六道輪廻
五趣も六道もブッダが考えたのではない。後世になってまとめられた概念である。ダンマパダでは、「善趣」(良き境遇)と「悪趣」(悪しき境遇)として説かれているだけである。スッタニパーダでは、具体的に、ブッダのことばとして、「地獄」の様子が語られている。
業
佐々木閑氏によると、
- 人間(に限らず、輪廻する生き物全て)が何らかの意思をもってものごとを行おうとする際に発生するエネルギー(のようなもの?)で、悪いことをすれば 「悪業」のエネルギーが生まれ、善いことをすれば「善業」のエネルギーが生まれる。
- こういった善業や悪業が、人間を含む生き物を将来、天道〜地獄道(六道)に引っ張ってゆく(輪廻)。
- いったん発生してしまった業は自然消滅することはない。必ず報いとしてなにがしかの結果をもたらす。悪い行いをして悪業が発生してしまったら、善い行い をい くらしても、その悪業が帳消しになることはない。
- ただし、その結果がいつ現れるかはわからない。次に生まれ変わった時かもしれないし、百回生まれ変わった後かもしれない。
- 業と結果の関係は一回限り。業の結果が原因となって次の結果が現れるという連鎖はない。
のだそうだ。