前を向くために Part3

プログラミング、音楽、外交問題、その他思いついたことを何でも公開

人生、前向きに生きたいもの。でも、何かと後ろ向きになりがちな自分がいるのです。前向きに生きるには、まず前を向かなければなりませぬ。じゃあ前を向くためにはどうしたらいいの?と日々悩んどります。これはその記録の一部です。

誰が道徳を教えるか

先日、


日本人の倫理観が崩壊しているというお題で記事を書きました。

やっぱりこれは何とかしないとまずいと思うのです。日本人全員を再教育したほうがいいんじゃないかと思うんですが、大人の世界は倫理よりも金儲けに忙しいようで、善悪よりも損得の方が優先するように見えます。本来は逆だと思うのですけどね。逆と言うより、そもそも損得などという尺度は、倫理の外側にあるものだというのが私の考えですが。大人の世界でも、やった方がいいと思うんですけどね…国内にある企業すべてに社員教育を義務付けるというのは、駄目でしょうかね。『そんな暇ねーよ』という声が聞こえてきそうですね。嘆かわしいことです。そんなことだから食品偽装なんて事件が起こるんですよ。顧客を騙して利益を得するという、倫理のかけらも無い事件が起こってしまうわけです。明らかに、まずいですね。大人の世界も。

まあ、大人の世界がそんなですから、親が子に道徳を教えるというのは、期待する方が無理というものでしょう。親の倫理観が崩壊している上に再教育の機会も無いとなれば、そりゃあ親が子に道徳や倫理を教えるのは無理に違いありません。何しろ、教える素地が無いのですから、教えようが無い。

同様に、地域やコミュニティで教えようというのも、無理でしょう。一般人が子供に道徳や倫理を教えるのは、もはや無理な世の中になってしまったのです。日本という国は。これがキリスト教なりイスラム教なり仏教なり、宗教が国民に行き渡っている国であれば、教会などの宗教団体が道徳を教える場にもなり得ましょうが、日本では宗教が国民に行き渡っているとは言い難い現実があるわけで、教会などに頼ることもできません。あるいは、柔道、弓道、空手道等の武道、あるいは華道、茶道などの『なんとか道』に頼るという手はどうでしょうか。日本には沢山の『なんとか道』がありますから。しかし、子供達全員を何らかの『なんとか道』に学ばせるというのは、現実問題として不可能でありましょう。子供も忙しいのです。遊びの時間も確保してあげなければなりません。遊びは子供の大切な時間です。本当は、勉強も遊びの一種なんですけどね。

であるならば、やはりここは学校で教えるしかないでしょう。『道徳は教えるものではなく育てるもの』ということもありますから、学校で教えることができるかどうか、そもそも先生も大人ですから、倫理観は崩壊しているわけで、無理という話もあるかもしれません。しかし、一般社会人を再教育するよりは、学校の先生を再教育する方が、まだ現実的です。ここはひとつ、学校の先生の倫理観を再教育するということも含めて、道徳、倫理は学校で教えるということにした方が、親を再教育して子供に教えさせるよりもよっぽど実現性があると思うのです。

何をどのように教えるかについては、これはまた別の問題として考える必要がありますが、ちょっとだけ触れておきましょう。文部科学省は、どうしようかと悩んでいるようです。


道徳、教科格上げを提言 検定教科書使用 文科省の有識者会議

有識者会議』は、全員が倫理観あふれる方々であることを期待しますが、どうでしょうね…わかりませんが。

文科省には『道徳教育』というサイトが合って、そこには例の『心のノート』も置いてあります。


道徳教育

まーこれを見てみれば、何だかがっかりするような内容かもしれません。『こんなんでいいの?』というのが、私の正直な感想です。

道徳というのは、小中学校での教科の名前ですが、高校になると『倫理』という教科になります。学問的には人文科学で『倫理学』というのがありますね。

そもそも、道徳とは何か。倫理とは何か。そこから問い直さないといけないんじゃないかと思うのです。なぜ道徳や倫理が必要なのか。そういうところから、始めなければならないと思うのです。

さて、なぜでしょう? それは、現代の人間は、社会というもの無くしては存在し得ないというところから導かれるのです。道徳・倫理は、人間が人間社会の中で生きて行くために必要なものなのです。言わば潤滑油とでも言いましょうか。社会を社会として成り立たせるために必要なもの。それが道徳・倫理なのです。

ごく基本的なところから考えてみましょう。生きるということです。権利で言えば、生きる権利、つまり『生存権』です。人は皆生きていますが、それは、少なくとも日本においては、生きる権利が保障されているからなのです。基本的人権というやつですね。これは、国連でも『世界人権宣言』として、加盟国に強制力がある権利となっています。つまり、世界普遍の権利なのです。

そして、権利には義務が伴います。権利と義務という言葉が出てきました。小学1年生にはちょっと難しい言葉ですが、わかりやすく言えば、みんなで一緒に生きようよということなのです。権利があるところには必ず義務があります。そして、人間はすべからく、生きる権利を有しています。これは基本的人権の中でも、最も基本となる権利です。この場合、義務はもちろん、他人の生きる権利を守るということですね。当たり前のことですが、権利と義務というのは、基本的にはこういうことなのです。権利があるならば、他者にも権利があることを認める義務がある。これが権利と義務の関係の基本です。

だから、人殺しなんてことは、法律以前の問題、当たり前のこと、常識レベルの問題なのです。にもかかわらず、殺人をする人がいるから、やむを得ず殺人罪なんていう刑法上の犯罪があるわけで。どこにでも常識を守らない愚か者はいるものですから、それはやはり常識を教えるという意味で、罰則を設けなければなりません。基本的には、殺人もポイ捨ても同じなのですよ。常識の問題。常識って、そういうものでしょう?

まあ、何をどう教えるかについては、また別の問題として取り上げようと思いますが、こういうことを、学校の先生に求めるのは無理があるでしょうか。今はそうかもしれません。でも、学校の先生からまず再教育をしないことには、将来の日本を背負って立つ子供達が育ちません。だからいずれにせよ、学校の先生の再教育は最優先でやらなければならないことなのです。子供達のためにも。先生に対しては、そもそも論として権利と義務の再教育から始まる倫理観の再教育をすること。大人の世界の再教育も、そこから始まると思うのです。先生の再教育が成功すれば、それは社会人一般に通用するかもしれません。先生に通用しなければ、社会人一般にも通用はしないでしょう。

そりゃあ、学校の先生は大変だとは思いますよ。でも、学校の先生という職業を『聖職』に戻すチャンスでもあると思うのです。学校の先生はみな尊敬に値するという世界を再構築するチャンスなのです。学校の先生は『権威』を取り戻すチャンスです。私はやはり、先生という職業は『聖職』であってほしいんですよね。これは私の個人的な希望ですが。かつて、学校の先生は、尊敬される存在でした。『先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし』という話もありましょうけれども、これは本来、尊敬される存在である『先生』と呼ばれる職業の人達が、実はそれほど尊敬に値するほどの人物では無いんじゃないの?ということを皮肉ったものでしょうから、やはり、学校の先生は本来、尊敬される種類の職業だと思うのです。

『聖職』として確立すれば、自然とそれを志す子供が増えてきます。人間には『承認欲求』がありますから。となれば、先生になるのは今よりずっと競争が激しくなり、競争原理によって、自ずと学校の先生の質も向上するでしょう。私はそこを期待するのです。良質な先生を育成するには、志を持った良質な人間を集めること。これに尽きると思うのです。

何をどのように教えるかは、よく考える必要があります。が、誰が道徳を教えるか、という問題については、私の意見は『学校で先生が教える』なのです。