前を向くために Part3

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人生、前向きに生きたいもの。でも、何かと後ろ向きになりがちな自分がいるのです。前向きに生きるには、まず前を向かなければなりませぬ。じゃあ前を向くためにはどうしたらいいの?と日々悩んどります。これはその記録の一部です。

私の闇歴史:プロローグとしての家族の死

始まりはパニック発作だったけれど、その原因は実は特定されていないという話まで書いた。今日はその原因について、考えていることを書き留めておこうと思う。

実際、発症した当時は、よくわからなかった。医師も明確にこれだとは言わなかったと思う。今になっても、当時のパニック発作多発、これは当時の医学では、不安神経症、その中での不安発作と言われていたので、そう言い換えるが、この不安神経症の直接原因はよくわからないというのが、正直なところである。

が、何にも無かったわけではない。原因があるとすればこれかもしれない的なことはあった。1年も前のことなのだが。突然、兄が死に、そして、その後を追って父が死んだのである。

兄の死は、全く突然だった。私が大学4年のときのことである。今で言う突然死という奴だ。医師の診断は『急性心不全だった。つまり『急に心臓が止まって死んだ』ということだ。だがこれは何も原因を説明していない。警察も来たようだったが、事件性は無いとされ、司法解剖も行われなかった。だから原因は不明なままなのである。発見者からのまた聞きでは、発見された時、兄はウイスキーの入ったグラスを持って、横たわっていたらしい。だから、もしかしたらお酒を飲んで、酔って心拍が上がって、心臓が異常な動きをしたのかなという推測は可能だけれども、本当のところはまったくわからない。私が駆けつけた時には、すでにきれいに静かに、布団の上で横になっていた。

その時、兄は婚約をしていた。その婚約の相手の人がもう泣いて泣いて泣きまくったので、それはもう見ていられなかった。父も母もそうだったと思う。子を失った親の悲しみはいかばかりかというのは、私には到底わからないけれども、何しろ婚約者がかわいそうでかわいそうで、自分の悲しみとかいうのを感じるよりも、みんなその人の心配をしていたような気がする。だから、私自身の直接的な悲しみとか喪失感とか、何かそういう気持ちは、その時はそんなに感じなかった。父も母も、気丈に振る舞っていた。それでもさすがに母は泣いていたけれども、父は泣いてはいなかったと思う。涙は出ていたかもしれない。私も、泣いたということはなかった。『自分は兄が死んでも泣きもしない冷たい人間なんだな』と思ったことを覚えている。あとひとつ、今でも覚えているのは、父の発した『なんてこった』という言葉である。まったくその通りだった。ある日、何の前触れも無く、突然、家族が死ぬ。そんなことが我が家に起ころうとは、まさに、『なんてこった』だった。

そして、その数日後、今度はその父が死んだのである。それは、兄の葬式が全て済んで、親戚から借りたものを、兄が残した車を使って、父と一緒に親戚に返しに行って、これで全て済んだというその夜のことだった。夕食時のことである。父が、やはりお酒を飲みながら(父は毎日晩酌をしていた)、首の後ろをさすり、『何だか首が痛いな』と突然言い出し、その直後に、倒れた。そして『お母さん!お母さん!』と叫びながら、嘔吐して、意識を失った。その場には、家族全員がいた。父と母と、母方の祖母と、そして私である。みんな大慌てだった。祖母は父の頭を抱えて吐いたもので窒息しないようにし、母は洗面器やらタオルやらを持って来て、私はすぐに電話で救急車を呼んだ。救急車が来るまで、私は何もすることができなかった。母は救急車に乗る準備をしていた。健康保険証とか、財布とか、そういうもの。父は横になって気を失っていた。私は救急車の音が聞こえたので外に出て誘導した。田舎のことであるから、救急車が来れば、近所の人達は何事かとみんな外に出てくる。それがうちだとわかると、『まあ、こないだお葬式があったばかりなのに』なんていう言葉が聞こえてきた。私は、『何も死ぬと決まったわけじゃないのに。勝手に殺すな』と思ったことを覚えている。父は救急車で近くの総合病院の救急センターのようなところに運ばれた。私と母は、徹夜で病院にいた。祖母は家で一人、待っていた。連絡した近くの親戚が続々と集まって来た。父を見た医師の話では、脳出血で、延髄に近い辺り、つまりあらゆる臓器をコントロールする神経網の根元付近が出血していたので、助からないということだった。そうして父は、夜明けを待たずして、息を引き取った。

父は元々血圧が高く、降圧剤を処方されていた。しかしその頃は割と調子が良く、降圧剤を処方通りに飲んでいなかったらしい。これは後で母から聞いたことだ。なので、突然の兄の死という『なんてこった』な出来事のために血圧が上がり、ついに数日後に脳血管が耐えきれずに破れて出血したのだろう、ということになっている。まったく、兄の葬式が全て終わった夜に死ぬなんて、実によくできた話だと思ってしまう。何事もきちんとする父らしいと思ったものである。

親戚の人達は、無責任にも『兄が、天国で寂しくて、父を呼んだんだよ』なんて言っていたけれど、田舎というのはそういうところだ。勝手なことを言うものなのである。私も母も、兄のことがあった直後だったので、もう何が何だかわからないうちに、叔父(父の弟)がいろいろ葬式の手配やら何やらを全部やってくれたのに助けられ、兄の葬式より一層大きな葬式を、同じ場所で、つまり私の実家で、やり終えたような気がする。やっぱり、私は泣かなかった。母は涙を流した。兄の骨と父の骨を立て続けに拾ったわけだけど、兄の骨がまだきれいで白かったのに対し、父の骨は年相応に黄色じみていたことを覚えている。

そういうわけで、私は、父が『首が痛い』と言ってから死ぬまでの一部始終を見ていたことになる。そしてこのことが、後に私の決定的なウィークポイントとなるのであるが、それはパニック障害よりさらに後のこと、会社に入ってからのことだ。それはまた別の記事にしようと思う。

こういう、降ってわいたような突然の出来事が、パニック発作を起こす1年前にあったことはあった。私は、ちょうど就職活動を始めるところだったが、こんなことがあったのに、この先ずっと勤めることになる就職先を決めるという私の人生での大きな決定事項をすることはできないと思い、就職をしないで大学院に進学するという道を選んだ。就職への猶予期間が欲しかったのである。正直な話、どうしたらよいかわからなかった。どうしたらよいかわからなかったから、学生であることを続けることにしたのである。そうして大学院に進学し、1年後に、パニック発作が起こったのである。

事実の羅列を中心に、原因だったかもしれない、平和な家族に突然訪れた『事件』を書いてみた。闇歴史はまだ続く。