前を向くために Part3

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人生、前向きに生きたいもの。でも、何かと後ろ向きになりがちな自分がいるのです。前向きに生きるには、まず前を向かなければなりませぬ。じゃあ前を向くためにはどうしたらいいの?と日々悩んどります。これはその記録の一部です。

私の闇歴史:就職してからわかったこと

学生時代のことは最初に書いた通り。会社員になるギリギリまで、私は学生向け精神科に通い続け、セルシンを服用し続けた。

その後、私は日立製作所に就職した。当然、就職すれば学生向けの精神科には通えない。どうしたかと言うと、入社して最初の頃は、数年間ずっとどこの医者にも行かなかった。それは、当時の日立の新入社員の実習制度というのが関係していた。

今はどうか知らないが、私が入社した当時、配属先となった神奈川県横浜市戸塚区の『ソフトウエア工場』(当時)では、大卒・院卒・高専卒の場合、配属された新人のうち、だいたい 1/3 くらいだったと思うが、茨城地区の工場に2年間実習に行き、残りの 2/3 は3ヶ月間(2ヶ月間だったかもしれない)、神奈川県秦野市にある『神奈川工場』(当時)でコンピュータハードウェア工場の現場実習に行くというのがあった。私は神奈川工場実習のほうに回された。なので、配属先は横浜市戸塚区だったし、東京のアパートからの引っ越し先も早々に(配属先が正式に決まる前から)戸塚に引っ越していたけれども、3ヶ月間は秦野の日立の独身寮住まいということになった。週末は自由だったので、週末ごとに秦野から戸塚のアパートに帰っていた。

これがもし茨城地区実習2年だったらどうなっていたのかはわからない。『イバ地区実習』と呼ばれていたけれども、会社はまったく勝手なことをするものである。最初からして奴隷と同じだ。イバ地区実習は、新人社員の中ではとても評判が悪かった。みんな、行きたくなかったのである。今から思うと、会社側には意図的にそれを思い知らせるという意味もあったかもしれない。最初にガツンと強権発動して会社は社員をどうにでもできるという『恐怖政治』は、ここから始まっていたのだと見ることもできる。

もっとも、配属先にしても、一応新入社員の希望は聞くけれども、決めるのは会社で、決まったらそこに赴任しなければならないのであるから、いずれにしても、新入社員は奴隷だったのである。本社採用なので、入社後、どこの事業所に配属されるかはわからない。それは会社が決めることである。ちなみに、高卒は基本的に事業所採用なので、そういうことはなかった(はずである)。

ついでに言及しておくと、イバ地区実習には、嫌な思い出がある。私達神奈川工場実習組が、実習を終えて戸塚で新人教育研修を受けていた頃、イバ地区実習生の一人が飛び降り自殺したのである。それも、同じ東京大学卒だ。私は、同じ東大卒の同期生(つまり同期の同窓生である)がイバ地区実習中に自殺したことに、強いショックを受けた。戸塚研修中は、なぜか級長みたいなことをやらされていたので(これも会社が勝手に決めたことである)、同期代表として葬儀に参列するように言われ、参列した。葬儀は東京のお寺だった。東大を卒業して、日立に入社して、ほんの数ヶ月も経たずに自殺に追い込まれてしまう…何ということだろうか。あまりにも悲しすぎないか。当時、自殺の理由は聞いていなかったと思うが、私は今も、彼は会社にやんわり殺されたのだと思っている。もちろん会社はそんなことを認めるはずがないが。私も、イバ地区実習になっていたら、どうなっていたことか…。

そういうわけなので、戸塚でも秦野でも、精神科には通えなかったというのが、入社当時の実情だった。医者は普通、平日営業だ。平日は会社がある。しかも実習中。正式に社員になったわけではなく、『試用期間』なのである。だから解雇は簡単。試用期間中に何かあったら解雇される。医者に通っている暇なんかなかった。

しかし、医者に行かなくなったからといって、別に病気が治ったわけではない。本来なら、ちゃんと精神安定剤を服用し続けなければならなかったのである。にもかかわらず、医者に行かなかったので、精神安定剤は入手できなかった。多少は余りを持ってはいたけれども、そんなのは、飲み続ければすぐに無くなってしまう。だから、とてもクリティカルだった。

この時になってわかったことだが、私は、異常に首がウィークポイントだったのである。首に触れるものは何であれ嫌だった。常に吐き気のようなものがあったので、いつも龍角散のど飴をなめていた。朝から晩まで、食事時間以外は、仕事中もタバコ休憩中も通勤途中も、いつもだった。だからよく『おまえ薬くさい』と言われたものである。それはそうだろう。いつも龍角散のにおいがする飴をなめているのだから。でも、『薬くさい』と言われても、どうしようもなかった。何かを口に入れていないと、『オエッ』となるのだから。そして、本当にヤバそうな時——つまりパニック発作を起こすかもしれないというような時——にだけ、大切にとってあった精神安定剤を飲んだのである。精神安定剤は、かなり長いこと持った。今から思い返せば、かなり際どい綱渡りだったと思う。

この、首がウィークポイントというのは、間違いなく、父の死の影響である。私が、父の死を、『首が痛い』と言ってからの一部始終を見てしまったこと、これが私の脳に、『首が痛いと死ぬんだ』という回路を作ってしまったのである。これはもちろん、まったく論理的ではない。父の死を目撃してしまったという強烈な印象でできてしまった、言わば、ショートである。異常な回路である。だからこそ病的なのであり、だからこそ病気なのである。

さらに、『死』そのものへの恐怖である。これも、父の死を見てしまったことから来るのだと思う。この恐怖というものが、その後の私の心の底に、常に流れている通奏低音となってしまった。それは今でもずっと続いていて、すべての私の心理的挙動の根本にある。『死への恐怖』が基本となって構築される精神構造は、いびつだと思う。とてもゆがんでいて、不安定で、尖っていて、周囲と非同期に、勝手に動く心理だと思う。

そしてこれはとても根が深い。なぜ深いかと言うと、死というものは、今のところ、全ての生物個体に訪れることになっている、決して逃れることのできない、この世でおそらく唯一、絶対と言える現象だからだ。全ての生き物はいつか絶対に死ぬというのは、今のところ、真理らしいのである。死から逃れることはできない。不可能だ。死から逃れることが不可能である以上、死の恐怖から逃れることもまた、不可能なのである。唯一、死の恐怖から逃れる方法は、死ぬことである。死ぬことによってしか、死の恐怖から解放されない。生きている限り、死の恐怖は常につきまとう。一度その恐怖を感じてしまったら。一度、死の恐怖を感じてしまったら、いつ死ぬか心配しながら、びくびくと生きることになる。生きている気がしない。それが今の私の姿なのだと思う。とてもゆがんでいる。

ところで、兄の死は、心理的にはほとんど影響されていない気がする。兄の死は、残念だということに尽きる。兄もさぞ無念であったろう。生きていれば、交流もあっただろうに、唯一の兄弟つまり唯一の同世代の家族を亡くしてしまった。悲しいというより、残念。こういう気持ちを『悲しい』と表現する人もいるのかもしれないが。

会社に入って、この後、致命的な出来事が起きるのは、数年後のことである。それはまた別の記事にしようと思う。長くなりすぎた。