前を向くために Part3

プログラミング、音楽、外交問題、その他思いついたことを何でも公開

人生、前向きに生きたいもの。でも、何かと後ろ向きになりがちな自分がいるのです。前向きに生きるには、まず前を向かなければなりませぬ。じゃあ前を向くためにはどうしたらいいの?と日々悩んどります。これはその記録の一部です。

私の闇歴史:ついにパニック発作再発

就職してからの最初の部分は私の闇歴史:就職してからわかったことに書いた通り。これはその続きである。

『のど飴作戦』は神奈川工場実習が終わって戸塚に戻って来てからも、ずっと続いた。新人教育研修が終わり、事業所内でもまた配属があり、同期はそれぞれ配属された部に散って行ったが、私も職場に配属され、会社の歯車としての一歩を踏み出した。その後もずっと、飴をなめ続けた。さらにその後何年もこういうクリティカルな状態での会社生活が続くことになったのである。

今から思い返せば、せめて戸塚に戻った後からでも、精神科への通院を再開すれば、この後に起こった残念な出来事は防げたかもしれない。しかし、私はそうはしなかった。なぜかと言えば、医者に通わなくても、のど飴で何とかなっていたからである。もしかしたら、もっと重傷だったら、つまり、またパニック発作を頻発というようなことであったなら、通っただろうという気はするけれども、パニック発作を起こすこともなく、飴さえあれば仕事はできたので、別に病院に行かなければという切羽詰まった状況ではなかったのである。

それで会社生活が辛かったかと言えば、その頃はむしろ楽しかった。仕事もバリバリやったし、夜勤も残業も休日出勤もバリバリやった。仕事は日立製コンピュータの OS を作るという仕事、まさに『ソフトウェア工場』の名前が示す通りの仕事である。工場とは言っても、ソフトウェアなので、ハードウェア工場のような生産現場は無い。全てがソフトウェアの設計開発という仕事(と、普通どこにもある総務や経理部門がちょこっと)だったので、普通に設計ドキュメントを書く事務机が社員の人数分プラスα、よくあるような形で島になっていて、そこだけなら普通の会社の風景と全く変わらない。ちょっと普通と違ったのは、プログラムを打ち込むためのコンピュータ端末がものすごくたくさん置いてあったことくらいだろう。OS を設計開発するというのは、ハードウェアも試作品(つまりハードにもまだバグがある)で、しかも担当したのがスーパーバイザーという OS のコアの、さらに割り込み制御・タスクスイッチングというコアの中のコアの部分だったので、自分のプログラムにバグがあるとコンピュータ全体が止まってしまう。なので、実機デバッグは、どうしてもマシンを独占使用する必要があり、マシンスケジュールの点から夜勤(変則勤務と呼んでいた)になることもよくあった。ちょうどバブルの頃である。毎日4時間残業なんて、当たり前だったし、時々はそれを超える深夜残業もした。月40時間という労使協定のリミットを越えることも当たり前だったし、休日出勤も当たり前だった。私だけでなく、周りがみんなそうだったのである。それが普通だった。みんな、とても忙しかったのである。でも、やりがいがあって、楽しかった。自分が作ったプログラムが世の中に出て、日立製コンピュータの中で動いているというのは、なかなかの快感だった。

そんなある日、たぶん、入社してから4年目くらいだったと思うが、私は部長から、全社研修に行くようにと言われた。日立製作所の全社研修はいろいろあったみたいだが、そんなことは全く知らなかった。その中には、若い技術者向けの技術研修というのがあって、それは確か2週間に1回、東京の青山にある研修所で1泊2日の研修を行い、研修と研修の間にはどっさりと難しい宿題を大量に出されるという、とてもハードな研修だった。人数は、全国から40人くらいだっただろうか。ソフトウェア工場からは3人だった。その頃のソフトウェア工場の同期は、大卒・院卒でたぶん100人を超えていた。その中から、毎年、社費留学が1〜2人、この研修が2〜3人くらい。そのくらいの割合だった。全国で言えば、大卒・院卒・高専卒の同期は1000人を越えていたので、その中の40人ということになる。いずれにせよ、同期でだいたい上位 5% くらいに入らなければ受けられない。つまり、幹部候補研修だったのである。が、当時はそんなことを知る由もなかった。

それだけに、研修の1泊2日はともかく、宿題がものすごく大変だった。研修期間は1年半。最初のうちはよかったが、何しろ、そうでなくても多忙な職場だったから、それに加えて宿題をこなさねばならず、つまりそれは、仕事は周りの人と同じように仕事をし(これだけで十分多忙だった)、自分の時間で宿題をやらなければならないという、それはもう本当に大変なことだった。そもそも仕事が忙しくて、自分の時間などほとんどなかったのである。全国の研修生もそこらへんは似たり寄ったりで、研修生の間では連絡を取り合って、宿題の解答のやり取りがあったりした。そういうのはだいたい毎年同じ宿題が出るので、前年の研修生のつてをたどれば解答は入手できたのである。

しかし、私はどうもそういうやり方に馴染めなかった。今になって思えば、そうやって伝手やコネを作り、世の中をうまく渡るのもまた幹部候補生の重要な技術なのかもしれないとは思うが、私は元々、根が単細胞な性格なので、自分の力で解いていない解答を出すというのがどうにも気持ち悪かったのである。悔しかったのである。そんなことをしても、何とも言えない敗北感だけしか残らなかった。それに、そんなことをして宿題を出すことに、この研修の意味があるのかという疑問もあった。だんだんと私は宿題が終わらないままに研修に行かなければならないようになり、そのために研修が嫌で嫌でしょうがなくなり、ついに部長に、研修を止めさせてくれと頼み込んだ。しかし、軽く却下された。何回も頼んだが、その度に却下。私は深刻な悩みを抱え、やがて業務時間中に宿題をやるようになったりして、周りが私を見る目も変わっていったように思う。自分でも、これはいつか破綻するという気がしていた。何となく、いつか終わりが来ると感じていたのである。

そして、6ヶ月くらい経った頃、ついに、私は、研修に向かう東海道線の車内で、パニック発作を再発させてしまったのである。朝の東海道線上りというのは、今でもそうだと思うが、まったくもって殺人的なラッシュだった。東海道線もピーク時は数分に1本というように限界まで本数を増やすものの、あのラッシュは尋常ではない。まさに殺人的。今は、フレックスタイム制度が行き渡っていたり、15両編成になったり、車両も良くなったりしたので、昔よりは少しはマシになったのだろうか? 乗らないのでわからないが。

ともかく、パニック発作の再発は、私には致命的だった。その時は確か新橋で降りて、いつもなら乗り換える地下鉄には行かず、引き返した。そして戸塚に戻り、会社に出勤した。私の頼みを却下し続けた部長に、どういう言い訳をしたかは憶えていないが、パニック発作だとは言わなかったのは確かである。

断っておくが、別に会社に病気のことを隠していたわけではない。入社前の履歴書には、ちゃんと『神経症で通院中』と書いたし、そのせいで会社の採用部門から『今は大丈夫ですよね』という確認の電話が私にもあったし、大学の教室にもあった。そのため、教室の助教授からは『なぜそんなことを履歴書に書くんだ。落とされるぞ。』と怒られたものである。幸か不幸か落とされなかったが。それが果たして配属先の部長にまで伝わっていたかどうかまではわからない。もしかしたら、落とされた方が良かったかもしれない。そうすれば、理化学研究所へ行くという道もあったので、たぶんそっちに行って、研究者になっていたと思う。が、今更そんなことを言ってもしょうがない。私の今までの人生における最大の失敗は、日立製作所に就職したことだと思ってはいるのだが。理化学研究所に就職すれば良かったと思っている。でも、今更そんなことを言ってみてもどうしようもない。失敗は失敗だ。大失敗だ。私みたいなどこか尖った人間は、そもそも大企業で歯車として回ることなどできない相談なのだ。これについては、いつか書こうと思っているが、それに思い至ったのは割と最近のことである。

一度、パニック発作を再発させてしまったからには、もう私は、東海道線には乗れなくなってしまった。朝のあの殺人ラッシュに乗ったら、また発作が起きるかもしれないと思うと、怖くて乗れなかった。『予期不安』というやつである。パニック発作自体は、究極の恐怖というほどのものではなく、発症時の最初の頃のような、軽いものだったけれども、私にはそれで十分だった。もう二度とごめんだと思っていたことが再発してしまったのである。それ以上の理由は必要ない。そういうわけなので、研修の日の朝、戸塚駅に行っても電車に乗ることができず、会社に出勤するということが何回か続いた。

そして、会社でも、さすがにこれはおかしいということになって、ようやく私は、会社が戸塚に持っている病院の精神科を受診することになったのである。

病院の精神科では、やたら決めつける精神科の医師がいて、なぜかわからないが、その医師の決めつけ論理によってうつ病という診断になって、『とりあえず3ヶ月は会社を休むように』という医師の指示があった。そして、精神安定剤を処方してもらった。抗うつ剤と一緒に。ことここに至って、ようやく私は、研修という、会社のきつい命令から、解放されることになったのである。

が、試練はこれで終わりではなかった。会社というのは、本当に社員を奴隷のように扱うのである。それはまた別の記事にしようと思う。また長くなってしまった。