前を向くために Part3

プログラミング、音楽、外交問題、その他思いついたことを何でも公開

人生、前向きに生きたいもの。でも、何かと後ろ向きになりがちな自分がいるのです。前向きに生きるには、まず前を向かなければなりませぬ。じゃあ前を向くためにはどうしたらいいの?と日々悩んどります。これはその記録の一部です。

私の闇歴史:度重なる休業

前回のストーリーは私の闇歴史:ついにパニック発作再発に書いた通りである。就職後、ついに最初の破綻となるパニック発作再発と3ヶ月休業まで書いた。これはその続きである。

3ヶ月の休養期間は、特別な事も無くあっという間に過ぎたと思う。家で何をしていたかも憶えていない。休養が明けて会社に戻ってからは、私は部長に研修へ行けと言われることも無く、普通に周りと同じように仕事を続していた。研修に行かなくていいという事が、とても嬉しかった。嬉々として仕事をしていた気がする。一番楽しかった頃だ。後輩も入って来て、新製品のコントローラプログラムを作らせてもらって、それで特許を書いたりもして、忙しいけどとても充実していて、楽しかった。

ただ唯一、2週間に1回の精神科通院が増えたくらいであるが、別にそれは何でも無かった。ちなみに、これ以来、今に至るまでずっと、精神科への通院が続いている。もう何年通っているのだろう…。

いい頃だったねぇ...しかし、それも長くは続かなかった。

その頃、コンピュータプラットフォームのオープン化という流れがあり、その流れに乗って、日立でも UNIX を本格的にやろうということになったらしく、私がいた事業所であるソフトウェア工場、と言うかもうその頃はソフトウェア開発本部とかソフトウェア事業部とか、会社の構造がいろいろ変わるのにつれて事業所の名前もコロコロ変わっていたので、これ以降はソフトウェア事業部ということで統一するが、UNIX 事業をソフトウェア事業部でやるということになったらしい。そこら辺の経緯は上の方で決めていたのでよく知らない。ただ、ベースを何にするかですごく揉めていたのは確かだ。

そして、私の所属する部でも、その一部を担当することになって、私は最初の立ち上げメンバーとして引っこ抜かれたのである。その数わずか4人。もちろん他の部にも何人かずついたけれども。部の全員は建物の1階にあって、私もそこにいたのだけれども、4人はそことは別の、4階に一部場所が空いていて、そこに場所が移動した。でも別に UNIX マシンがあったわけでもなく、英語の本があるだけだった。何をやっていいのか、誰も何もわからなかった。唯一、事務担当というか取り纏めの主任さんがいて、その人だけが何かをやっていた。残り3人は技術担当という事であったが、何もやる事が無かったのである。そもそもベースをどうするかで揉めていたのだから、下々はさっぱりわからなかった。

ちょうとこの異動時に、私は平社員から主任に昇格した。主任になったのは、同期の中で一番早かった。入社6年目くらいだったと思う。会社というのは、目立つ奴は、やっぱり必ず、叩くかあるいは引っこ抜くのである。

私は確かに目立っていたと思う。その頃はソフトウェア事業部では『設計競技会』という名前の、技術者一斉試験みたいなのがあって、私は常にトップクラスに入賞していた。新人の時は新人賞を取り、2年目以降は先輩達に混じって新入りがトップを争っていたのである。入賞すると、工場新聞に名前が載るのである。その頃のソフトウェア事業部は、たぶん5千人くらいはいたと思う。私は毎年入賞していた。一番の新入りが、なみいる先輩を差し置いて。私の先輩の指導員もとてもできる人で、いつも指導員と私が争ってトップを取り合いしていたのを憶えている。だからとても目立ったに違いないと思う。ただ、自信を持って言えるが、1番はやっぱり指導員の方だった。筑波大学で情報処理をちゃんと専攻した、バリバリの情報処理の専門家だったのである。私みたいな門外漢で、プログラムを作るのが好きで日立に来ましたというような人間とは基本からして違ったのである。

その先輩指導員ではなくて、なぜ私が UNIX の方に引っこ抜かれたのかはわからない。会社という組織は、誰かを差し出せと上から言われたら、1番できる人間は後でリーダーとするために手元に残して、2番目を差し出すのかもしれない。そこら辺はよくわからない。いずれにせよ、私は引き抜かれた。楽しく仕事をしていたのに、突然、主任昇格と異動を申し渡されたのである。しかも、何もやる事も無いのに。会社は明らかに、人選を間違えたと思う。半年間、何もやる事が無くて、ただ会社にいるだけというのが苦痛でしかたがなくて、私は本当にうつになり、再び休業することになったのである。

たぶん、3ヶ月休業だったと思う。その頃は、休業と言えば3ヶ月だったような気がする。その休業が明けて会社に戻ると、その指導員も UNIX の方に異動して、主任としてチームリーダーになっていた。私は自然にその下に付くことになったのである。最初から指導員の方を会社が選んでいれば、私は休業する事も無かったかもしれないのに、とその時はものすごく会社を恨んだものである。もうその時には職場には UNIX マシンがあって、端末と言えば TSS 端末という時代に、もうちゃんと 10BASE のイーサネットTCP/IP もあって、X サーバ(X Window の X である)もあって、開発環境は整っていた。たぶん、揉めていたのがどちらかに決まったのだろう。よくわからないが。

そうなる前にたぶんとりあえず開発人員確保ということで引き抜かれて、6ヶ月間やることがなくて、うつになって休業3ヶ月...私はこれ以来、休業が癖のようになってしまって、よく休業した。UNIX の開発に携わっている時期に、2回は休業したと思う。

これで完全に『休み癖』が付いてしまったのである。とても壊れやすくなった。私は、はっきりと、『会社に潰された』と認識するようになった。最初に潰されたのが研修。その次が新事業立ち上げの引き抜き。それに続いてまた同じ事を2回くらい。途中、1年がかりの大プロジェクトのリーダーになって成功させたりして、それでまた昇給したりもしたけれども、UNIX 以降も、グループウェアをやるからといっては引き抜かれ、2回か3回くらいプロジェクトを成功させて、また引き抜かれて今度は潰されて休業して、みたいな感じで、本当に、引き抜かれて、2回くらいうまく行って、3回目で倒れる、みたいなことがパターン化したみたいに、繰り返し繰り返し何度も休業したのである。

合計何回くらい休業したのか、よくわからない。10回までは行ってないと思うけれども、もしかしたら超えているかもしれない。休職期間は1ヶ月〜6ヶ月くらい。その間には、初めての海外旅行がインド出張だったり(インドには何回も行った)、ソフトウェア事業部所属のまま勤務地が新川崎になったり、ニューヨークで 9.11 があってロンドン出張を急遽中止したりとか、いろんなことをやったものである。一応、頑張った事は頑張った、と思う。頑張ったけれども、こういうのは、1度壊れると、2度と元には戻らないものなのである。割れたガラスをくっつけようとしても、決して元通りにはならないように、1度倒れると、倒れるまでの閾値が低くなってしまうものなのだ。だから、精神疾患は、よく再発する病気なのである。

そうたびたび休むと、さすがに会社の方も『こいつ壊れやすい』とわかったらしくて、数年くらいだろうか、閑職に就いて新川崎でゆるゆると仕事をしながら、時々戸塚の病院の精神科に通うという日々が続いた。しかし、そのまま、ゆるゆるさせていてくれていたら良かったのに、また会社に翻弄されることになるのである。それはまた別の記事で。