前を向くために Part3

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人生、前向きに生きたいもの。でも、何かと後ろ向きになりがちな自分がいるのです。前向きに生きるには、まず前を向かなければなりませぬ。じゃあ前を向くためにはどうしたらいいの?と日々悩んどります。これはその記録の一部です。

テロリストと戦ってもテロは撲滅できない

9.11 以来、アメリカが主導となって、日本を含む世界はテロとの戦いを公言し、躍起になってきました。あれからもう10年以上も経って、さてテロは無くなったでしょうか。あるいは、少なくとも、減少したでしょうか。いずれも NO であることは、この10年余りの歴史が証明しています。そろそろ世界は、そして日本は、テロと戦ってもテロを減らせないことを認めたらどうかと思うのですが。それは決して、テロに屈することでは無いのですよ。にもかかわらず、ロシアのプーチン大統領は、『撲滅するまで戦う』とか言っているらしいです。


「テロリスト撲滅まで戦う」、”強いリーダー”の直面する課題

戦って、テロを撲滅することは不可能です。なぜなら、戦っても戦っても、殺しても捕まえても、テロリストは毎日、次から次へと生まれているからです。テロと戦う姿勢を続ける限り、この連鎖が終わることは無いでしょう。まあ、ソチオリンピックはもう近いですから、守りを固めるしかないだろうけれども、攻撃して撲滅しようとするのは、所詮無理な話です。

プーチンに限らず、テロとの戦いを声高に訴える権力者達は、決してテロリストが何を言っているのかに耳を貸そうとしません。なぜ耳を貸さないかと言えば、それは彼らの既得権が危機にさらされるからなのです。

既得権とは何か? 例えば土地です。国土。諸民族の独立によって国土が失われるのが怖いのです。国土には、往々にして地政学的な利点や様々な地下資源が付随します。これらの権益を失いたくない。だから国内にある独立運動を認めないで弾圧する。だから抗議のテロが起きる。そういう構造があるのだということをわかっているから、権力者は耳を閉ざすのです。これは特に、ロシアと中国で顕著です。民族自決権は、国連でも保証されている、諸民族の権利です。民族には独立の欲求がある。弾圧すればするほど、反発は強くなり、独立の欲求は強固なものになってゆくのは自然な流れでしょう。

それから、宗教の自由です。これはキリスト教イスラム教という構図でとらえることができます。現在のテロの多くは、この対立に根ざすものです。キリスト教国は、イスラム教が邪悪な宗教だと決めつけますが、それは単に、キリスト教という自分達の宗教が否定されるのが怖いからに過ぎません。信仰の自由をうたいながら、イスラム教を弾圧するというのは、明らかに矛盾しています。フランスで実際にあったことですが、法律でブルカと呼ばれる女性のかぶり物を禁止するなど実にナンセンス。ブルカのような宗教的な服装は、やりたければやればよいし、やりたくなければやらなければよいのです。それが『自由』というものでしょう。わざわざ法律でそれを禁止するのは、国内法的にも国際法的にも自由権の侵害になると思われます。フランスの国旗の色は、『自由、平等、博愛』ではなかったでしょうか。そのフランスで、ブルカを禁止する法律が成立してしまうとは、何とも皮肉な話です。

宗教は、常に深い対立を生じさせるものです。それが『信仰』という内面的なものであるが故に。心の自由は、どんなに弾圧しようとも、屈することは決してありません。なぜならば、それこそが、人間が生きる力の根源であるからです。旧約聖書の申命記第8章の3に、有名な『人はパン而已にて生る者にあらず人はヱホバの口より出る言によりて生る者なり』という言葉があります。


申命記(文語訳)#8:3

これは新約聖書マタイ伝第4章の4のイエスの言葉の方が有名ですが、イエス(あるいはマタイ、あるいはマタイ伝を書いた人)は旧約聖書のこの部分を引用したのです。ちなみに旧約聖書は、キリスト教イスラム教共通の、そして何よりもユダヤ教にとっての教典です。重要度は相当に異なるようですが。ですが、この言葉は、別にこの3つの宗教だけに限って有効な言葉ではありません。これらの教徒でない日本人(が多数派だと思いますが)においても、全人類においても有効な、つまり当てはまる言葉です。この言葉が意味することは明白でしょう。パンとは具体的には食べ物、お金、つまり物質的欲求をを満たすものであり、エホバの口より出る言とは具体的には喜び、満足、幸福感などのような精神的な欲求を満たすものです。人間は物質的な欲求を満たすのみのために生きるのではなく、精神的欲求を満たすために生きるのである、ということだと言えば、誰しも納得するのではないでしょうか。『欲求の心理学』で有名なマズロー欲求段階説によれば、おおむね第3段階より上です。

かように精神的な『糧』というのはとても重要な生きる原動力であり、それは宗教を問いません。ですが、どのようなものを糧と考えるかは、宗教によって違います。そのような違いを認めず、ただ西洋のキリスト教的価値観を押し付けるだけでは、宗教的対立は決して無くならないでしょう。宗教は多様であるということを認める必要があります。

ところがこれが一神教の人達には難しい。日本人は伝統的に多神教であり、それ故に、他国の文化を素直に(ともすれば無思考に、無批判に)受け入れて吸収してしまうので、あまりピンと来ないのですが。具体的には、ユダヤ教キリスト教イスラム教の3つですが、この3つの宗教は、相互に対立しています。ユダヤ人の弾圧はキリスト教ユダヤ教に対する反発から来ていますし、ユダヤ教イスラム教の対立は中東のイスラエルとその周りを見ればわかりますし、キリスト教イスラム教の対立は、今の世界の主要な宗教的対立そのものです。戦前は、ユダヤ教が迫害の主な対象でした。イスラエルの建国によって、ユダヤ教は一定の地位を確保しましたが、それは最強の軍隊を持つ最強の国アメリカがバックにいたからです。

現代の宗教的対立は、イスラム教キリスト教の対立、そしてイスラム教内での宗派間対立です。優勢なのは、国連も含めて、やはり先進国のほとんどが含まれるキリスト教であり、イスラム教は弾圧される側にあります。中でもアメリカは、自由と民主主義という西洋型価値観によって世界を征服しようと考えているので、イスラム社会に大きな反発を生じさせています。それが 9.11 にもなりました。イラク戦争にもなりました。アフガニスタン紛争は未だに続いています。困ったことです。

これではテロは決して無くなりません。彼らがなぜ、テロをするのか、そこにまで踏み込まないと、テロは永遠に続きます。キリスト教国は、前述のように、自分達の信仰が脅かされるのを恐れて、イスラム教を認めようとしていないように見えますが、これではうまくいかないでしょう。そうではなくて、彼らイスラム教徒、そしてテロを行う過激派が何を言っているのかに耳を貸すことこそが、まずテロを減らすための唯一の方法ではないでしょうか。彼らは何を求めているのか。それを聞くことだけでも、テロはずいぶん減ると思うのです。まずは不満を吐き出させること。これが重要です。ちょうど、怒っている人に対し、何を怒っているのか聞いてみると、怒りがすーっと消えてゆくのと同じこと。あるいは、愚痴を聞いてあげれば、悩みはほとんど消えてしまうのと同じこと。テロリストも人間ですから。実にこの、テロリストをそしてイスラム教徒を人間扱いしていないということこそが問題なのだと思うのです。

話を聞いたことによって、もしかしたら、自分達が持っていた権益を手放さなければならなくなるかもしれない。でもそうしなかったら、どんなに弾圧してもテロはなくなりません。世界の権力者は、テロリスト達の話を聞かないことによって、自分達が何を守ろうとしているのかを、もう1回考えてみた方がいいのではないでしょうか。そして、それを守ることがそんなに重要なのか、それともそれを差し出せばテロが収まるのなら差し出してもいいのか、そこをよく考えてみた方がいいのではないでしょうか。世界の権力者の決断によって、テロが減ってゆくことを期待できるでしょうか。当てにできるとしたら国連くらいしか思いつきませんが…。