前を向くために Part3

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人生、前向きに生きたいもの。でも、何かと後ろ向きになりがちな自分がいるのです。前向きに生きるには、まず前を向かなければなりませぬ。じゃあ前を向くためにはどうしたらいいの?と日々悩んどります。これはその記録の一部です。

生きることの葛藤

日経BPの記事を読んで考え込んでしまいました。


本当に大切なものに気づく方法

1.自分の命が、残り1日だったとしたら、残された時間をどのように過ごしたいですか? 元気に24時間過ごせると考えてお考えください。

2.自分の命が、残り3日だったとしたら、残された時間をどのように過ごしたいですか? 元気に3日間過ごせると考えてお考えください。

3.自分の命が、残り7日間だったとしたら、残された時間をどのように過ごしたいですか? 元気に7日間過ごせると考えてお考えください。

4.自分の命が、残り1年だったとしたら、残された時間をどのように過ごしたいですか? 元気に1年間過ごせると考えてお考えください。

で、まあ、『1年あればたいていのことはできますよ』というわけなのですが。これ、一つ一つ考えてみて、結局最後は『どう死ぬか』という問題になるわけですよ。結局、明日にしろ、3日後にしろ、1週間後にしろ、1年後にしろ、死ぬわけですから。そうすると、どうしても、『どこで、どのような死に方をするか』というのを考えざるを得ない。

カルメン・マキ & OZ』という、かなり昔に一部でブレイクしたバンドがありましてね。『26の時』という曲があって、その中に、『どこか自分を埋める場所を探しながらさまよう』という歌詞があって、思い出しました。好きな曲です、この曲。

そうなんですよ。結局人間は、生まれたときから、自分を埋める場所を探しながらさまようのです。そして、本当に死ぬそのときまで、ずっとさまよい続ける。人間に限らず、生き物は全てそう。普通は意識してないですけどね。死がすぐ間近に迫っていることを察知するまでは。察知したとき、動物はどういう行動を取るか。私は、動物が死んだときっていうのは、猫のことしか知りませんけど、猫は必ず、隠れて死にます。小さい頃から、家には猫がいつもいて、何回か、その死を見てきました。猫って、決まって縁の下で死ぬんです。私の記憶にある限り。人間は、家族がいる人は、家族に看取られて死ぬことが多いような気がしますけど、家族がいない人はどうなんでしょうね…私が死ぬときは、家族はいないはずなんで、どう死ぬのかというのは、やっぱり考えておかないといけない。

上の記事は、アップルの元 CEO スティーブ・ジョブズの言葉も引用していますけれども、スティーブ・ジョブズの有名な言葉に、スタンフォード大学での演説があります。幸いなことに、日経新聞のサイトで、演説の全文を日本語で読むことができます。原文はスタンフォード大学のサイトにもあります。


「ハングリーであれ。愚か者であれ」ジョブズ氏スピーチ全訳
'You've got to find what you love,' Jobs says

彼は、死について語っています。この全訳の中で探せばここでしょう。


私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。
When I was 17, I read a quote that went something like: "If you live each day as if it was your last, someday you'll most certainly be right." It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself: "If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?" And whenever the answer has been "No" for too many days in a row, I know I need to change something.

彼の言葉は、実体験に基づいているだけに、重いですね。実に重い。そして心に響く。彼ほどの成功を収めた人でも、いや、彼のような成功を収めた人だからこそ、このようなことを考え続けてきたのでしょう。私は、ジョブズから見れば、『生き方を見直せ』ということになるんでしょうね。もう長いこと、『違う』と思いながら、時間を無駄にしながら生き続けていますから。本当に、生き方を見直さなければならないのです…実は。

あと1日しか生きられないとしたら、やれることはかなり限られるので、本当に大切なことだけをするだけでおそらく時間が尽きます。しかし、1週間あれば、かなりのことができます。1年あればなおさら。もしあと1年の命だとしたら、こうするだろうという思いはあります。第一に、会社を即座に辞めて…。

それができずにいる理由は何だろう? 新しい一歩を踏み出すのが怖いだけではないだろうか? 今の生ぬるい安定を失うのが怖いだけではないだろうか? しかし、この生ぬるい安定は、本当にそんなに安定しているのだろうか? 安定していると思い込んでいるだけではないだろうか?

考え方と生き方が食い違っているときは、どちらかを変える必要があります。同じ考え方をするのを選ぶならば生き方を変える必要がある。同じ生き方をするのなら、考え方を変える必要がある。この2つが食い違っていると、生き続けるのが非常に困難に、重荷になります。『こうじゃない』感が満載で、生きているのが嫌になる。生きることが辛くてしょうがない。実際、今、嫌だし辛くてしょうがない。

かと言って、じゃあ死ねるかと言うと、私にはまだ親が生きていますから、親より先に死ぬことは、私の良心が許さない。兄がもう死んでますのでね。親より先に子供が死ぬことは、最大の親不孝だということは、それを見て知っていますから。兄が死んで、私まで死んでしまったら、親はどうやってその後を生きればいいのでしょう。私にはとても考えられません。だから私は、少なくとも親が死ぬまでは、どうしても生きなければならない。

しかし、生きることは、簡単なことではありません。生きるにはお金が必要です。お金を得るためには、働かなければなりません。年金をもらえるようになるのはまだ当分先のことだし、それだけで十分とは限らないし、少なくともそれまでは何か働き続けて、命をつなぐだけの収入を得なければなりません。生活保護があると言っても、それにはいろいろ手続きや資格があるし、そこまでやるんだったら、私は働く方を選びます。自分の手で働いて、自分のお金を得て、自由に使いたい。今のまま生き方を変えなければ、命をつなぐくらいの収入はたぶん得ることができるでしょう。しかしそうするには、考え方を変えなければやっていられない。そうしなければ、常に、『こうじゃない』感との葛藤を続けなければならないし、それはそんなに長い期間は耐えられるものではないですから。

答えは見えている。見えているはず。ただ、私は、その答えを認めるのが、嫌なのかもしれません…プライドが、邪魔をする。会社という巨大権力。力の前に屈するのが、プライドとして、耐えられない。

そう。プライドなのです。ちっぽけなプライドですが、一寸の虫にも五分の魂。あるんですよ、プライドが。

東条英機元首相の遺言に、『ただ力の前に屈服した』という文言がありますが、どんな心境だったんでしょうね。確かに、力に屈したのです、日本は。アメリカという巨大な力に。昭和天皇の『終戦の勅書』、昭和20年8月15日のいわゆる玉音放送ですが、有名な『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び』というのは、国民に向けたメッセージだったのですけど、実は、それが最も耐え難く、また忍び難かったのは、昭和天皇であったろうと思うのです。誰よりも、東条英機元首相よりも、あらゆる日本国民よりも。力に屈するという選択をしたのは、ひとえに臣民つまり日本国民のこれからのことを考えたからであって、そのためには、天皇という日本の最上級のプライドを捨てることをも厭わなかったそのお心は、私なんぞまるで手の届かない、尊いお心だったのです。退位さえ覚悟していた、と言うか、退位したかったでしょう。だって、東条英機元首相ほか、1000人もの日本人が死刑になる中で、昭和天皇は、訴追もされず、退位も許されず、つまり死ぬことも退位することも許されず、天皇として生き続けることを要求された。アメリカがそれを求めたのです。辛かったと思いますねぇ。そりゃあ辛かったでしょう。どんな日本人も味わえないような辛さが、あったのだと思います。天皇であるがゆえに。それを思えば、私のプライドなんぞ、吹けば軽く飛び去ってしまう、砂粒よりも小さく、羽よりも軽い、ちっぽけなものなんですけどね。

私は今の会社で、これでもかというくらい、プライドを傷つけられてきました。もうボロボロに、コテンパンに、徹底的に。もう痛くて痛くて仕方がありません。しかし、個人のプライドなんぞ、企業という巨大組織の前には、まるで歯が立ちません。企業は、逆に、個人のプライドを捨てさせて社畜にすることで、会社への忠誠を誓わせるのです。私は、そんな会社に逆らったため、会社によって潰され、精神疾患にかかってしまいました。それで許してくれるかといえばそんなことは決してなく、ボロ雑巾であってもボロはボロなりに使うのです。社畜になることを拒否したにもかかわらず、否が応でも社畜になれとゴリ押しされる日々。これは辛い。しかし、会社の論理で、社畜を強要されてしまうのです。

今のまま会社にい続けようと思うなら、この考え方を変える必要があります。つまり、社畜になること、社畜であることを受け入れる必要があると思うのです。なぜなら、社畜になることこそが、会社から最も多くの報酬を最も効率良く引き出す手段だからです。それは同時に、会社にとっても、最も大きな成果を個人から引き出すことになります。つまり win-win の関係。社畜とは、文字通り会社に身も心も捧げて働くことですが、それは別に思想信条的に良いとか悪いとかいう問題ではありません。それが最も効率の良い働き方だというのは、間違いありませんから。そのためには、人間の最終的かつ最も高い欲求である自己実現欲求を、会社の業務によって満たすことこそが最適解。

働くことは悪いことではないし、むしろ良いことです。それに、人間は常に、何歳になっても働きたいのです。対価がどうであれ。定年退職した人が、十分な年金をもらっているのに、さらに働いたり、ボランティアをしたりするのは、承認欲求や自己実現欲求が、いつまでも人間を何か役に立ちたいと駆り立てるからでしょう。人間社会から忘れられ、無視されることほど、人間を失望させるものはありません。そうなると、もはや死ぬことしか残っていないのですから。

簡単なことです。もし会社にい続けようとするのなら、それに夢中になれ、そうでなければ会社を辞めて、夢中になれることをやれ、ということなのです。ジョブズが "Stay hungly, stay foolish." と言うのも、結局はそういうことなわけで。決めるのは人それぞれ。決めるのは、早ければ早いほどいい。でなければ、いたずらに悶々と時間を潰すだけでしかありません。

私も、どうするのか、早く決めなければ…。